昭和56年は、8月から9月までの1ヵ月間に札幌で700mm以上の雨が降るという異常な年だった。札幌の年間降雨量は約1,200mmなので、ひと月に年間の約6割にあたる雨が降ったことになる。
この豪雨で石狩川流域では8月上旬(3~8日)と下旬(22~24日)に大洪水が発生し、石狩川流域全体の被害額は約1,000億円に上った。
石狩川流域の広範囲にわたる被害の大きさに、当時は「500年に1回の洪水」とも言われた。
豪雨で川は増水し、4日には警戒水位を突破し浸水被害が出始め、5日の時点で各地の被害は甚大に。6日0時から3時にかけて、石狩川本支川の各観測所では次々と計画高水位を上回り、最高水位を記録した。
水防活動は4日から、11市15町2村の225箇所で行われたが、石狩川本支川の10箇所で破堤。濁流が市街地や農地に流れ込み、農作物が全滅した地域もあった。
また函館本線や千歳線など全道で鉄道10線が不通、国道36号と同12号他17本の道路が通行止めになるなど、交通はマヒした。とくに江別市付近の国道12号は濁流と化し、たくさんの住民が足止めされ、また避難場所へと急いだ。
札幌市北部では茨戸川の水位が上昇したため、北海道開発局は完成前の石狩放水路の緊急通水を、関係機関との調整の上決定。突貫工事で開削し洪水を流した。危機一髪だった。
上旬洪水では、とくに中下流の低平地での氾濫が大きく、氾濫面積は記録的だった昭和50年8月洪水の約290の2倍以上の約610Km2に達した。
23日の降雨量が札幌で207mmという観測史上最大を記録し、豊平川と千歳川で大きな被害となった。
千歳川支川の漁川で1箇所破堤。そして、豊平川上流の新興住宅街で土砂災害が発生、オカバルシ川や野々沢川の流域被害が大きかった。石狩川洪水の歴史のなかで、大規模な土砂災害が発生したのは初めてで、家屋や道路を一瞬で破壊する、土砂流下の破壊力の大きさに驚かされた。
また豊平川の各所で、恐竜の背中のような一列に並んだ三角波が発生した。急流河川、豊平川の洪水流の恐ろしさを、まざまざと見せつけられた。
「豊幌駅前で理容店を開いて今年で51年になりますが、この間はまさに洪水との闘いでした。昭和36年と37年、50年、そして56年の、4回も浸水被害に遭いました。
なかでも昭和56年上旬洪水は思い出したくないほどの被害でした。1階の天井あたりまで水に浸かったのです。計ったら2.8mもありましたが、地域には2階まで水に浸かって屋根しか見えないお宅も5、6軒ほどあり、ひどい状況でした。また国道と鉄道が不通になり、1週間程、交通網が寸断されました。4日間避難していましたが、洪水後の後片付けも大変な苦労です。水は3日経ってもひかず、上の清んだ部分を使って壁を洗うのですが、匂いがきつくてたまらない。使えなくなった大量の家財道具の処分もあります。結局、6年後に家を建て直しました。駅前には小さな商店街があったのですが、みな洪水後に出ていって、3軒しか残らなかった。うちも洪水後は商売にならず、田植えや稲刈りを手伝いながら、なんとかこらえて乗り越えてきたのです。」
「わたしは昭和37年からここに住んでいますが、真駒内は傾斜地なうえ豊平川支川の真駒内川は急流なので、大雨が降るといつも氾濫すると古くから住む先輩達から聞いていました。
とくに昭和56年8月下旬の豪雨で真駒内川が氾濫して、真駒内も大きな被害を受けました。わたしの住む町でも、道路の路肩が決壊する被害が出ましたが、特に衝撃的だったのは、南町の川沿いに建てられたマンションの土台が洗われた事です。
豪雨で水かさが増した真駒内川はすごい勢いで流れ、花園橋下流の蛇行部分に激突してマンションを襲いました。基礎部分はむき出しになり、住民は真駒内南小学校に避難しました。
その後このマンションは修復され、今もありますが、洪水後は色々大変だったようです。当時は川沿いにマンションが建てられるほど、札幌の人口は急増していました。この町にも新しい住民がどんどん入ってきましたが、土地の事や暴れ川の真駒内川を知らない人ばかりです。この洪水で、川沿いに住む人達はみな戦々恐々としていましたよ。」